キングダム 昌平君は、史実と物語での描かれ方に大きな違いがあるキャラクターです。
史実では楚の王子でありながら秦に人質として送られ、相国にまで出世しました。一方、物語では秦国の右丞相として登場し、呂不韋の腹心であり軍事の責任者を務めています。
卓越した知略と武力を兼ね備えた昌平君は、中華統一という大志を抱き、秦の発展のために尽力します。呂不韋に見出され重用されるも、次第に嬴政(えいせい)の器の大きさに気づき、加冠の儀で呂不韋から離反。
身分にとらわれず人材を登用し育成する手腕は、秦王朝の礎を築くこととなりました。
この記事のポイント
・昌平君の史実上の経歴と物語での役割の違い
・作中での昌平君の立ち位置と人物像
・呂不韋との関係性と嬴政への忠誠心の変化
・秦の発展と中華統一に果たした昌平君の貢献
キングダム 昌平君の史実と概要
・史実の昌平君は楚の公子
・秦で相国にまで出世した昌平君
・楚滅亡後に秦に背いて戦死
・キングダムでは呂不韋四柱の一人
・秦国の右丞相で軍事の責任者
・知略を重んじる軍略家
・武人としての一面も持つ昌平君
史実の昌平君は楚の公子
史実における昌平君は、中国戦国時代の楚の公子であったとされています。
考烈王の子として生まれ、若くして人質として秦に赴いたと記録されています。
当時の中国では、敵対する国同士が和平交渉の際に、相手国に王族や重臣の子弟を人質として送ることが一般的であったようです。
このように、昌平君は楚の王子でありながらも、政治的な理由から秦で過ごすことになったのです。
秦で相国にまで出世した昌平君
秦に人質として送られた昌平君でしたが、その才覚を発揮し、秦で頭角を現していきます。
尉繚(い りょう)と共に秦の軍事面に携わり、優れた将兵を多数育成したと伝えられています。
こうした功績が認められ、ついには相国(しょうこく)、つまり大臣の最高責任者クラスにまで昇りつめたのです。
楚の人質であったにも関わらず、このように出世できたのは、昌平君の非凡な才能を物語っているでしょう。
特に軍事面での手腕は高く評価されており、秦の統一事業の原動力となったと考えられています。
楚滅亡後に秦に背いて戦死
紀元前223年、故郷である楚が秦によって滅ぼされると、昌平君の運命にも大きな転機が訪れます。
当時、楚の将軍項燕(こう えん)が、楚王負芻(ふ す)を擁立して秦に反旗を翻しました。
この反乱に呼応するように、昌平君も秦に背くことを決意します。
しかし、秦の名将王翦(おう せん)・蒙武(もう ぶ)らに敗れ、昌平君はこの戦いで命を落とすこととなりました。
詳しい理由は定かではありませんが、昌平君が秦に仕えながらも、故郷への想いを断ち切れなかったのかもしれません。
この出来事によって、楚は秦に最後まで逆らった国として、民衆から一定の支持を集めることとなったのです。
キングダムでは呂不韋四柱の一人
一方、漫画『キングダム』における昌平君は、史実とはやや異なる設定となっています。
作中では、秦の宰相である呂不韋(りょ ふい)の側近「四柱」の一人として登場します。
史実で昌平君の友人であったとされる蒙武も、キングダムでは四柱の一角を占めています。
物語開始時点で、昌平君は秦国の右丞相(うしょうしょう)の地位にあり、国政の要職を担っているようです。
史実と比べるとかなり重要な役職に就いていると言えるでしょう。
秦国の右丞相で軍事の責任者
作中での昌平君は、単なる呂不韋の腹心というだけでなく、秦国軍の司令官も務めています。
物語開始の紀元前245年時点で、既に軍師育成機関を自費で運営するなど、事実上の秦国軍事責任者と言える立場にあります。
このように、昌平君は秦の重鎮として、軍事面に大きな影響力を持つキャラクターとして描かれているのです。
また、『キングダム公式ガイドブック』によれば、蒙武とは幼馴染であり、親友の関係にあるとのこと。
互いに切磋琢磨し合いながら、秦の発展を支えてきた二人なのでしょう。
知略を重んじる軍略家
キングダムの昌平君の最大の特徴は、卓越した知略を持つ軍略家という点にあります。
軍事だけでなく政治的な場面でも、その知恵を発揮して難局を切り抜ける様子が描かれています。
敵国の将・李牧(り ぼく)でさえ、昌平君の纏う「武の空気」を感じ取るほどの存在感を放っているのです。
作中では智将としての一面が強調されていますが、必要とあれば自ら矛を手に取って戦場に赴くなど、文武両道の才を見せています。
軍師でありながら、強大な武力を誇る蒙武にも匹敵する戦闘能力の持ち主なのです。
武人としての一面も持つ昌平君
知将として名高い昌平君ですが、彼自身も一流の武人としての力量を持っています。
毐国(き こく)軍による咸陽侵攻の際には、久しぶりに馬上の昌平君の姿が描かれました。
振るう矛の一撃で敵兵の甲冑を破壊し、巧みな手並みで敵将の首を斬り落とすなど、その戦闘描写は圧巻の一言。
僅か数コマの場面ながら、昌平君が知略のみならず武芸においても超一流であることを示しています。
また、戦いの間も全く汗をかかずに涼しい顔を崩さないなど、普段の昌平君らしい姿も印象的でした。
ただし、『キングダム公式ガイドブック』の記述によれば、武力だけを見れば蒙武や王翦らには及ばないようです。
知謀と武力、そして人格。様々な面で秀でた昌平君という人物像が浮かび上がってきます。
キングダムの昌平君 来歴と活躍
・中華統一を夢見る昌平君
・才覚を見出され呂不韋に登用される
・軍師育成機関を自費で運営
・合従軍編で存在が明らかに
・嬴政の器を見抜き信頼を寄せる
・加冠の儀で呂不韋から離反
・飛信隊らと共に反乱鎮圧に貢献
・公平に人材を評価し育成する昌平君
・まとめ:キングダムの昌平君
中華統一を夢見る昌平君
キングダムの昌平君は、中華統一という大きな野望を抱いている人物の一人として登場します。
史実では人質としての立場であった昌平君ですが、作中ではあくまで秦に仕える立場であり、秦による統一を望んでいるようです。
ただし、作中でも昌平君の生い立ちは複雑であると語られており、その思惑は計り知れません。
王族であった昌平君が、なぜ秦に仕えることになったのか。その経緯は物語が進むにつれ、少しずつ明らかになっていくのかもしれません。
いずれにせよ、昌平君は秦の発展と中華統一のために、その才覚を存分に発揮していくこととなります。
才覚を見出され呂不韋に登用される
元々は六大将軍の一人である胡傷(こ しょう)の弟子であったという昌平君。
本来なら申し分ない経歴の持ち主ですが、何らかの理由で才能を発揮できずにいたようです。
そんな昌平君の力を見出したのが、秦国宰相である呂不韋でした。
紀元前249年、呂不韋が秦国の右丞相に就任すると、同時に昌平君を登用します。
李斯(り し)や蒙武らと共に、呂不韋の側近として重用されるようになったのです。
呂不韋という後ろ盾を得たことで、昌平君は一気に頭角を現していくこととなります。
軍師育成機関を自費で運営
右丞相に就任した昌平君は、秦の軍事力強化に尽力します。
その一環として、軍師育成機関を自費で運営していたことが作中で語られています。
国家予算ではなく昌平君の私財で賄われているため、実質的には昌平君の私設機関と言えるでしょう。
軍師の重要性を誰よりも理解していた昌平君だからこそ、このような施設を設けていたのかもしれません。
優秀な軍師を数多く輩出することで、秦の軍事力は飛躍的に高まっていったのです。
合従軍編で存在が明らかに
呂不韋の腹心として活躍する昌平君ですが、物語序盤ではその姿をあまり見せません。
しかし、合従軍編において、その存在感を大いに発揮することとなります。
六国が合従軍を組織し、秦への侵攻を開始した際、昌平君は秦軍の主要メンバーとして登場します。
趙の名将・李牧や、楚の宰相・春申君(しゅんしんくん)から合従軍の真意を聞き出すなど、秦軍の情報戦を一手に引き受けました。
この一連の活躍によって、合従軍編以降、昌平君の存在が広く知られるようになったのです。
嬴政の器を見抜き信頼を寄せる
昌平君は、秦王・嬴政(えいせい)の器の大きさにいち早く気づいた人物の一人でもあります。
若き日の嬴政が秦国に戻ってきた際、真っ先に歓迎に向かったのが昌平君でした。
また、対立する呂不韋派と嬴政派の仲介役を買って出るなど、嬴政を支える姿勢を見せています。
嬴政もまた昌平君の力量を認めており、次第に信頼を寄せるようになります。
史実とは異なり、作中の昌平君は終始一貫して秦王・嬴政に仕える立場として描かれているのです。
加冠の儀で呂不韋から離反
ただし、昌平君と呂不韋の関係には、次第に亀裂が生じていきます。
物語の転換点となったのが、嬴政の加冠の儀でした。
成人した嬴政が秦王として即位する直前、呂不韋は反乱を企てます。
これに際し、昌平君は呂不韋から離反することを決意。嬴政の味方につき、呂不韋打倒に動き出すのです。
かつての主君に刃を向けるのは、昌平君にとっても苦渋の決断だったことでしょう。
しかし、秦の未来を見据え、嬴政という新たな主君を選んだ昌平君。彼の真意は計り知れません。
飛信隊らと共に反乱鎮圧に貢献
呂不韋の反乱に際し、昌平君は嬴政の守護を担う飛信隊に協力します。
才気あふれる飛信隊の若者たちを、昌平君は将来の秦の柱となる人材だと評価していたのです。
信(しん)や羌瘣(きょう かい)らと共に、反乱軍との戦いに身を投じました。
昌平君の知略と飛信隊の突破力が合わさり、見事に反乱を鎮圧することに成功します。
嬴政への忠誠を示した昌平君でしたが、同時に有能な若手を育てる先見の明も発揮したのです。
公平に人材を評価し育成する昌平君
昌平君の持ち味は、人物を的確に評価し、適材適所で起用する力にもあります。
階級や年齢、出自にとらわれず、実力本位で人材を登用したことが特筆されます。当時の社会では身分制度が厳しく、貴族階級以外の者が高い地位につくことは難しい状況でした。しかし、昌平君は平民から優秀な人材を見出し、積極的に登用していきます。
例えば、のちに秦の宰相となる王綰(おうこん)は、昌平君に見出された人物の一人です。王綰は貧しい家庭の出身でしたが、その才能を昌平君が見抜き、重用しました。昌平君の下で経験を積んだ王綰は、秦王朝で活躍することになります。
また、昌平君は部下の育成にも力を入れました。有能な若手を自らの側近に置き、直接指導することで、その能力を最大限に引き出そうとしたのです。こうして昌平君の下で鍛えられた人材は、後に秦王朝の中枢を担うことになります。
まとめ:キングダムの昌平君
・史実の昌平君は楚の王子で、政治的理由から秦に人質として送られた
・秦で相国(大臣の最高責任者)にまで出世し、軍事面で活躍した
・楚滅亡後、秦に背いて戦死した
・キングダムでは呂不韋四柱の一人として登場し、秦国の右丞相で軍事責任者を務める
・卓越した知略を持つ軍略家であり、必要とあれば自ら戦場に赴く武人の一面も
・中華統一という大きな野望を抱き、秦の発展のために才覚を発揮する
・呂不韋に才能を見出され登用されるが、嬴政の器の大きさに気づき次第に離反
・加冠の儀で呂不韋から離反し、飛信隊と共に反乱鎮圧に貢献
・身分にとらわれず人物を的確に評価し、実力本位で登用・育成する
・王綰など後の秦王朝の中枢を担う人材を輩出した
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