キングダムに登場する嫪毐(ろうあい)とは一体何者なのでしょうか?
巨根で知られ、秦王政の母・趙姫と関係を持ったという衝撃の過去を持つ彼の正体は、実は秦の偽宦官でした。
呂不韋の食客から、趙姫の寵愛により一躍権力者へと上り詰めた嫪毐ですが、その野望は彼を破滅へと導くことになります。
反乱の首謀者として捕らえられ、車裂きの刑に処された彼の最期と、秦王政によって処刑された一族の悲劇的な運命を紹介します。
この記事のポイント
・嫪毐の出自や経歴、秦での立場について理解できる
・嫪毐が趙姫と関係を持ち、権力を握るに至った経緯が分かる
・嫪毐が反乱を企て、最終的に車裂きの刑に処された顛末を知ることができる
・嫪毐の一族や息子たちも処刑されたという悲劇的な結末を理解できる
キングダムの嫪毐(ろうあい)とは何者なのか
・嫪毐(ろうあい)は秦の偽宦官
・嫪毐(ろうあい)は呂不韋の食客だった
・嫪毐(ろうあい)は巨根で知られていた
・嫪毐(ろうあい)は趙姫(太后)と関係を持った
・嫪毐(ろうあい)は権勢を誇るようになった
・嫪毐(ろうあい)は長信侯に封じられた
・嫪毐(ろうあい)は太后との間に2人の息子をもうけた
・嫪毐(ろうあい)は河西および太原も領した
嫪毐(ろうあい)は秦の偽宦官
嫪毐は、中国の秦時代に実在した人物で、秦の偽宦官でした。
偽宦官(ぎかんがん)とは、中国の明代から清代にかけて、宦官(宮廷内の高官)になりすまして詐欺行為を働いた者たちのことです。
『史記』呂不韋列伝によると、嫪毐は本来、秦の宰相である呂不韋の食客(しょっかく)だったと記されています。
食客とは、古代中国において、身分の高い人物に仕える家来のような存在を指します。
しかし、嫪毐は後に秦王政(しんおうせい)(後の始皇帝)の母である趙姫(ちょうき)(太后)と関係を持ち、権勢を誇るようになったのです。
嫪毐(ろうあい)は呂不韋の食客だった
前述の通り、嫪毐は当初、秦の宰相である呂不韋の食客でした。
食客(しょっかく)とは、中国の春秋戦国時代から始皇帝の時代にかけて存在した身分の一つで、諸侯や大臣に仕える下級の家臣や知識人を指す言葉です。
食客は、主君から衣食住を提供してもらう代わりに、主君に仕えて助言や諫言を行ったり、外交や軍事、政治などの面で働きました。
呂不韋は秦王政の母である趙姫(太后)と長年不倫関係にあったのですが、次第に彼女を満足させることが難しくなってきました。
そこで、呂不韋は自身の身代わりとして、嫪毐を後宮に送り込んだのです。
王以外の男性で後宮に出入りできるのは、男性器を切除した宦官(かんがん)のみでしたが、呂不韋は様々な裏工作を行い、巨根が売りである嫪毐を宦官のような容貌に変えさせ、後宮への出入りを可能にしたのでした。
嫪毐(ろうあい)は巨根で知られていた
嫪毐は、非常に大きな男性器を持っていたことで知られていました。
『史記』呂不韋列伝には、嫪毐があまりにも巨根であったため、宴会の余興として自らの男性器を軸に馬車の車輪を回して見せたというエピソードが記されています。
こうした彼の特徴ゆえに、秦の宰相である呂不韋に見出されたのかもしれません。
宦官として後宮に入るには男性器を切除する必要がありましたが、呂不韋は様々な裏工作によって、巨根の嫪毐を宦官として後宮に入れることに成功したのでした。
嫪毐(ろうあい)は趙姫(太后)と関係を持った
呂不韋の思惑通り、嫪毐は後宮に入ると、趙姫(太后)の寵愛を受けるようになりました。
『史記』呂不韋列伝によると、嫪毐は趙姫との間に2人の息子をもうけたとされています。
太后の後ろ盾を得た嫪毐は、次第に権勢を握るようになっていったのです。
しかし、こうした嫪毐の振る舞いは周囲から好意的に見られてはおらず、やがて秦王政にも知られるところとなりました。
嫪毐(ろうあい)は権勢を誇るようになった
嫪毐は、趙姫(太后)の寵愛を受けたことで、次第に権勢を誇るようになりました。
紀元前239年には、嫪毐は山陽を封土として長信侯(ちょうしんこう)に封じられています。
また、呂不韋に次ぐ権力者として、多くの食客を擁するようにもなりました。
さらに、嫪毐は河西(かせい)および太原(たいげん)をも領したと記録されています。
このように、嫪毐は秦の宰相である呂不韋に次ぐ権力者へと成り上がったのでした。
嫪毐(ろうあい)は長信侯に封じられた
紀元前239年、嫪毐は山陽を封土として長信侯に封じられました。
これは、嫪毐が趙姫(太后)の寵愛を受け、大きな権力を握っていたことを示す出来事であると言えるでしょう。
侯(こう)とは、周代から秦漢時代にかけての爵位の一つで、諸侯(しょこう)と呼ばれる地方統治者を指します。
嫪毐が長信侯に封じられたということは、彼が一国の統治者に相当する地位を得たことを意味しているのです。
このように、嫪毐は趙姫との関係によって、大きな権力を手にするに至ったのでした。
嫪毐(ろうあい)は太后との間に2人の息子をもうけた
『史記』呂不韋列伝によると、嫪毐は趙姫(太后)との間に2人の息子をもうけたとされています。
嫪毐は、これらの息子を利用して自身の地位をさらに高めようとしたのかもしれません。
しかし、こうした彼の行動は周囲から好意的に受け止められることはありませんでした。
嫪毐と趙姫の関係は、やがて秦王政(後の始皇帝)の知るところとなり、大きな問題へと発展することになるのです。
息子の存在は、嫪毐の権力の象徴であると同時に、彼の破滅の原因ともなったのでした。
嫪毐(ろうあい)は河西および太原も領した
嫪毐は、長信侯に封じられたことに加え、河西および太原をも領したと記録されています。
河西は現在の甘粛省(かんしゅくしょう)付近、太原は現在の山西省(さんせいしょう)付近に位置していたとされています。
これらの地は、当時の秦にとって重要な拠点であったと考えられます。
嫪毐がこれらの地を領したということは、彼が単なる趙姫の寵臣(ちょうしん)というだけでなく、秦の国政においても大きな影響力を持つようになったことを示しているのです。
しかし、こうした嫪毐の権勢は、やがて秦王政(後の始皇帝)との対立を生むことになります。
キングダムに登場する嫪毐(ろうあい)の最期
・嫪毐(ろうあい)は御璽と太后の印璽を盗み反乱を企てた
・嫪毐(ろうあい)は楚の公子に返り討ちにあった
・嫪毐(ろうあい)は車裂きの刑に処された
・嫪毐(ろうあい)の一族と2人の息子は処刑された
・まとめ:キングダムの嫪毐(ろうあい)とは?
嫪毐(ろうあい)は御璽と太后の印璽を盗み反乱を企てた
嫪毐は、趙姫(太后)との密通が秦王政(後の始皇帝)に発覚した後、反乱を企てました。
『史記』呂不韋列伝によると、嫪毐は御璽(ぎょじ)と太后の印璽(いんじ)を盗み出し、兵を集めて反乱を起こそうとしたとされています。
御璽とは天子の印章、太后の印璽とは皇太后の印章を指します。
これらの印章を盗み出したということは、嫪毐が皇帝の権威を簒奪(さんだつ)しようとしたことを意味しているのです。
しかし、嫪毐の企ては秦王政に事前に察知されており、彼の反乱は成功には至りませんでした。
嫪毐(ろうあい)は楚の公子に返り討ちにあった
嫪毐の反乱は、秦王政の命を受けた楚(そ)の公子によって鎮圧されました。
『史記』呂不韋列伝には、嫪毐が咸陽(けんよう)で楚の公子である昌平君(しょうへいくん)と昌文君(しょうぶんくん)の叔甥(しゅくせい)に返り討ちに遭ったと記されています。
嫪毐は反乱の首謀者として捕らえられ、処刑されることになったのです。
楚は当時、秦の属国であったため、楚の公子が秦王政の命に従って嫪毐の反乱を鎮圧したものと考えられます。
嫪毐の反乱は、結局のところ彼の破滅を導く結果となったのでした。
嫪毐(ろうあい)は車裂きの刑に処された
反乱の首謀者として捕らえられた嫪毐は、車裂(しゃり)の刑に処されました。
車裂とは、古代中国において反逆者に対して行われた残虐な処刑方法の一つです。
罪人の四肢を馬や牛に縛り付け、引き裂くというものでした。
嫪毐は反乱の大罪によって、この残酷な刑に処されたのです。
『史記』呂不韋列伝には、嫪毐が捕らえられた後の様子について詳しい記述はありませんが、彼が車裂の刑に処されたことは間違いないでしょう。
秦王政(後の始皇帝)は、嫪毐を処刑することで、反乱の芽を完全に摘み取ったのでした。
嫪毐(ろうあい)の一族と2人の息子は処刑された
嫪毐は車裂の刑に処された後、彼の一族もまた秦王政(後の始皇帝)によって処刑されました。
『史記』呂不韋列伝によると、嫪毐の親族は皆殺しにされ、宗族(そうぞく)もまた夷(ころ)されたと記されています。
また、嫪毐と趙姫(太后)の間に生まれた2人の息子も処刑されたとされています。
秦王政は、嫪毐の反乱を徹底的に弾圧し、彼に関わる者全てを処刑することで、二度と同じような事態が起こらないように図ったのです。
嫪毐の一族や息子たちは、彼の反乱と運命を共にすることになったのでした。
まとめ:キングダムの嫪毐(ろうあい)とは?
・嫪毐は秦の偽宦官で、当初は呂不韋の食客だった
・嫪毐は巨根で知られており、それが彼の特徴の一つだった
・嫪毐は後宮に入り、秦王政の母である趙姫(太后)と関係を持った
・趙姫との関係により、嫪毐は次第に権勢を誇るようになった
・嫪毐は長信侯に封じられ、河西と太原も領するほどの権力を得た
・嫪毐は趙姫との間に2人の息子をもうけた
・嫪毐は御璽と太后の印璽を盗み、反乱を企てた
・嫪毐の反乱は楚の公子によって鎮圧され、返り討ちに遭った
・嫪毐は反逆者として車裂きの刑に処された
・嫪毐の一族と2人の息子も秦王政によって処刑された
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