キングダム 蒙武(もうぶ)、その名は秦国軍で最強の武将の名前です。
猪突猛進の勇猛果敢な戦いぶりで知られる蒙武は、
作中屈指の武力を誇り、敵を次々と打ち倒していきます。
息子たちや親友の昌平君など、魅力的な人間関係も見どころの一つ。
史実でも項燕討伐や楚攻略で活躍した蒙武の生き様に迫ります。
馬陽の戦いでの苦い敗北を糧に、さらなる高みを目指す姿からは、
武将としてだけでなく一人の人間としての成長も感じられるでしょう。
今回は、キングダムの中でも屈指の人気を誇る 蒙武(もうぶ) について、
様々な角度から徹底的に掘り下げていきます!
この記事のポイント
・蒙武の武力の高さや戦闘スタイル、性格などのキャラクター性
・息子や昌平君との関係性、王騎から託された使命など人間関係
・史実での活躍ぶりや作中での見せ場シーンなどの活躍
・馬陽の戦いでの敗北から得た教訓や成長など、キャラクターの変遷
キングダムに登場する蒙武(もうぶ)とは
・秦国四柱の一人で最強の武力を誇る武将
・攻撃一辺倒の戦闘スタイルで知られる
・得意の武器は大槌(おおづち)
・息子に蒙恬(もうてん)と蒙毅(もうき)がいる
・史実での項燕討伐や楚攻略の活躍
・「猪突猛進」と評される勇猛果敢な性格
・兵士の士気を高める独特の檄で知られる
・昌平君とは親友で絶大な信頼関係
秦国四柱の一人で最強の武力を誇る武将
キングダムに登場する蒙武(もうぶ)は、秦国の四柱の一人として知られる武将です。
彼は秦国軍の中でも最強クラスの武力を誇り、戦場で敵を次々と討ち取る勇猛果敢な将軍として描かれています。
作中では、蒙武の武力は100を基準に他の武将の武力が決められているほど、突出した存在として扱われています。
公式ガイドブックでも、蒙武と同等の武力100を持つ武将は、楚の大将軍・汗明(かんめい)や趙の三大天の一人・龐煖(ほうけん)といった、他国の最強クラスの武将のみとされています。
蒙武は秦国軍の中でも、とりわけ武力に秀でた将軍として君臨しているのです。
攻撃一辺倒の戦闘スタイルで知られる
蒙武の戦闘スタイルは、とにかく攻撃に特化したものです。
「戦いに攻も守も無い。あるのは目の前の敵を打ち砕くこと」というセリフからも分かるように、彼にとって戦いとは、ただひたすらに敵を打ち倒すことに他なりません。
その戦い方は、「策も何もあったものでは無い」と評されるほど、ただただ力押しで敵を蹴散らすものであり、「猪突猛進」という言葉がまさに蒙武のために存在しているかのようです。
しかし、そのような蒙武の戦闘スタイルは、時に「危うさ」を指摘されることもあります。
全てを攻めに賭ける彼の戦い方は、大きな勝利を収める反面、大敗を喫する危険性も孕んでいるのです。
それでも蒙武は、自らの武力を信じ、己の戦い方を貫き通す、律儀で頑固な性格の持ち主なのです。
得意の武器は大槌(おおづち)
蒙武の得意とする武器は、大槌(おおづち)です。
大槌とは、巨大な鉄の槌のことで、蒙武はこの大槌を軽々と振るい、敵兵を一撃で葬り去ります。
通常の武器では太刀打ちできないほどの破壊力を誇る大槌は、まさに蒙武の象徴とも言える武器なのです。
作中でも、蒙武が大槌を振るう姿は、敵兵を恐怖に陥れ、味方の士気を高める、まさに圧倒的な存在感を放っています。
蒙武にとって大槌は、ただの武器ではなく、己の武力の象徴であり、戦場における自身のアイデンティティーとも言えるものなのかもしれません。
息子に蒙恬(もうてん)と蒙毅(もうき)がいる
蒙武には二人の息子がいます。
長男の蒙恬(もうてん)と次男の蒙毅(もうき)です。
二人とも後に秦国の将軍となり、蒙武の跡を継いで活躍することになります。
特に蒙恬は、史実でも始皇帝の命を受けて北方の異民族・匈奴(きょうど)を撃退し、万里の長城を建設したことで知られる名将です。
作中でも、蒙恬は王賢(おうけん)軍の副将を務め、若くして非凡な才能を見せつけています。
蒙武にとって息子たちの存在は、単なる家族というだけでなく、自らの武力を後世に伝えていく、いわば「遺伝子」のようなものなのかもしれません。
史実での項燕討伐や楚攻略の活躍
蒙武は史実でも、秦国の武将として数々の武功を挙げています。
紀元前224年には、楚の項燕(こうえん)による秦への侵攻の際、将軍・王翦(おうせん)の副将として出陣し、項燕軍を撃破しました。
さらに翌223年には、再び王翦の副将として楚を攻め、遂に楚を滅亡に追い込むことに成功しています。
いずれの戦いでも、蒙武は持ち前の武力を遺憾なく発揮し、秦国の勝利に大きく貢献しました。
特に楚攻略戦では、楚の都・郢(えい)を陥落させる原動力となったと言われています。
史実における蒙武の活躍ぶりは、まさに作中でのイメージそのものと言えるでしょう。
「猪突猛進」と評される勇猛果敢な性格
蒙武の性格は、「猪突猛進」という四字熟語がよく似合う、勇猛果敢なものです。
彼は戦場では常に前のみを見据え、敵に立ち向かっていく、まさに「猪突猛進」そのものの戦い方を好みます。
そのため、時に無謀と評されることもありますが、蒙武にとってそれは「危うさ」などではなく、むしろ武将としての「美学」なのかもしれません。
また、蒙武は他国の将軍からも、「化物」や「怪物」と恐れられるほどの存在感を放っています。
強敵と渡り合えば渡り合うほど、蒙武の闘志は高まっていくのです。
彼の勇猛果敢な性格は、まさに戦場という「修羅の場」において、最大限に力を発揮するのです。
兵士の士気を高める独特の檄で知られる
蒙武は、兵士の士気を高めることにも長けています。
彼は戦いの前に必ず兵士たちに檄(げき)を飛ばしますが、その内容は独特の言い回しで知られています。
「俺についてこい!俺が敵の大将の首を取ってやる!」といった、シンプルながらも力強い言葉で、兵士たちを鼓舞するのです。
蒙武の檄は、彼の武力だけでなく、人望の高さをも物語っています。
兵士たちは、蒙武の檄に心を打たれ、彼の背中を追って戦場に赴くのです。
蒙武にとって兵士たちは、単なる「駒」ではなく、共に戦う「戦友」なのかもしれません。
だからこそ、彼は兵士たちの士気を高めることに心血を注ぐのです。
昌平君とは親友で絶大な信頼関係
蒙武と昌平君(しょうへいくん)は、秦国の大将同士でありながら、親友と呼べる間柄でもあります。
二人は若い頃から共に戦場を駆け抜け、幾多の死線をくぐり抜けてきました。
そんな二人の間には、言葉にしなくとも通じ合える、絶大な信頼関係があるのです。
作中でも、蒙武は昌平君の策略に助けられることが度々あります。
一方の昌平君も、蒙武の武力なくしては自らの策が成功しないことを心得ています。
二人は、まさに両輪となって秦国軍を支えているのです。
蒙武にとって昌平君は、戦友であり、親友であり、そして時には「良き理解者」でもあるのかもしれません。
キングダム蒙武(もうぶ)の活躍と見せ場
・馬陽の戦いでの無謀な追撃と苦戦
・王騎から秦国軍の顔となる将来を託される
・合従軍戦で楚の大将軍・汗明を討ち取る
・斉攻略戦で背後から襲撃し大打撃
・まとめ:キングダムの蒙武(もうぶ)とは
馬陽の戦いでの無謀な追撃と苦戦
馬陽(ばよう)の戦いは、蒙武にとって苦い思い出となった戦となりました。
この戦いで蒙武は、王騎(おうき)将軍の副将を務めていましたが、敵軍を追撃する際に王騎の忠告を無視し、度を越した追撃を行ってしまったのです。
その結果、趙の将軍・趙荘(ちょうそう)の策に嵌り、蒙武軍は壊滅的な被害を受けることになりました。
普段は無敵とも思える蒙武ですが、この時ばかりは彼の「猪突猛進」な性格が仇となってしまったのです。
しかし、この敗戦は蒙武にとって、決して無駄ではありませんでした。
彼はこの経験から、戦場では時に慎重さも必要であることを学んだのです。
馬陽の戦いは、蒙武にとって貴重な教訓となった、忘れられない戦となったのかもしれません。
王騎から秦国軍の顔となる将来を託される
馬陽の戦い後、王騎は重傷を負い、戦線を離脱せざるを得ない状況に陥りました。
その際、王騎は蒙武に「これからは秦国軍の顔となれ」と、将来を託したのです。
王騎は、蒙武の武力だけでなく、将軍としての資質をも認めていたのでしょう。
蒙武はこの言葉に、大きな責任を感じずにはいられませんでした。
彼は王騎の想いを胸に、これからの秦国軍を背負っていく覚悟を決めたのです。
王騎から託された「秦国軍の顔」という使命は、蒙武にとって生涯の目標となったことでしょう。
彼はその使命を全うすべく、さらなる精進を重ねていくのです。
合従軍戦で楚の大将軍・汗明を討ち取る
合従軍戦では、蒙武は見事な活躍を見せました。
この戦いで蒙武は、騰(とう)将軍と共に連合軍を組み、楚の大将軍・汗明(かんめい)率いる楚軍と対峙したのです。
蒙武は昌平君の策である「斜陣がけ」を用い、汗明軍本隊への道を切り開きます。
そして、汗明との一騎打ちの末に、遂に汗明を討ち取ることに成功したのです。
汗明は「楚の巨人」と謳われた最強の武将でしたが、蒙武はその汗明をも超える武力を見せつけました。
さらに蒙武は、汗明との一騎打ちで負った傷が癒えぬ内に、再び戦線に復帰します。
それほどまでに、蒙武は戦場に命を懸けていたのです。
合従軍戦での活躍は、まさに蒙武の真骨頂と言えるでしょう。
斉攻略戦で背後から襲撃し大打撃
蒙武は斉(せい)攻略戦でも、大きな役割を果たしました。
この戦いで蒙武は、斉に侵攻した合従軍の背後を突くという、非常に危険な任務を担ったのです。
敵軍の背後を襲うということは、敵に包囲される危険性が非常に高いということを意味します。しかし、蒙武は果敢にもその任務を引き受け、見事に成功させたのです。
蒙武は斉の背後を突くため、わずかな兵を率いて敵陣に潜入しました。そして、敵の拠点を急襲し、補給線を断ち、敵軍に大きな混乱を与えることに成功したのです。この蒙武の活躍により、合従軍は斉を攻略することができました。
蒙武のこの働きは、単に勇猛果敢というだけでなく、高い戦略眼と統率力を備えていたことを示しています。敵軍の背後を突くという危険な作戦を成功させるためには、綿密な計画と下準備、そして何より部下を率いる力が不可欠だったはずです。
また、蒙武は斉攻略後も、次々と重要な任務を任されています。曹操亡き後、蒙武は曹丕に仕え、皇帝に即位した曹丕の下で重責を担いました。後の呉との戦いでも、蒙武は大軍を率いて戦っています。
優れた武将であり、戦略家であった蒙武。彼の活躍なくして、魏の勢力拡大は語れないと言っても過言ではないでしょう。三国時代屈指の名将と称された所以は、斉攻略戦をはじめとする数々の武勲にあったのです。
まとめ:キングダムの蒙武(もうぶ)とは
・秦国四柱の一人で、最強クラスの武力を誇る武将である
・攻撃一辺倒の戦闘スタイルで知られ、「猪突猛進」という言葉が似合う
・得意の武器は大槌で、通常の武器では太刀打ちできないほどの破壊力を持つ
・息子に蒙恬と蒙毅がおり、後に秦国の将軍となって活躍する
・史実では項燕討伐や楚攻略で大きな武功を挙げている
・「猪突猛進」と評される勇猛果敢な性格で、強敵と戦うほど闘志が高まる
・兵士の士気を高めることにも長けており、独特の檄で知られる
・昌平君とは親友で、絶大な信頼関係を築いている
・馬陽の戦いでは無謀な追撃が仇となり苦戦したが、貴重な教訓を得た
・王騎から秦国軍の顔となる将来を託され、その使命を全うすべく奮闘する
・合従軍戦では楚の大将軍・汗明を討ち取り、卓越した武力を見せつけた
・斉攻略戦で敵軍の背後を突く危険な任務を見事に成功させた
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