キングダム 王翦 – 戦国時代を生きた天才軍師の実像に迫る
秦の重要な将軍であり、戦国四大将軍の一人として名を馳せた王翦。
その卓越した戦略と独特の人物像は、今なお多くの人を魅了しています。
しかし、王翦はどのような役割を担い、どんな戦いぶりを見せたのでしょうか?
本記事では、マンガ「キングダム」に登場する王翦の活躍と、史実に基づいた彼の実像に迫ります。
この記事のポイント
・王翦の戦国時代における役割と重要性
・王翦の武将としての優れた能力と戦績
・王翦の性格や人物像、他の将軍との関係性
・王翦が残した名言と、それが表す彼の考え方や姿勢
キングダムに登場する王翦(おうせん)とは?戦国時代の名将
・王翦は戦国四大将軍の一人
・王翦は秦の重要な武将だった
・作中での王翦の立ち位置
・王翦は王騎の親戚
・王翦は危険人物として扱われていた
・王翦の武将としての能力は一級品
王翦は戦国四大将軍の一人
王翦が注目されるのは、戦国時代の秦(しん)において非常に重要な将軍の一人だったからです。
白起(はっき)、李牧(りぼく)、廉頗(れんぱ)と肩を並べる戦国四大将軍の一員として、王翦は史記(しき)でも個別の項目で取り上げられるほどの歴戦の勇者でした。
秦の中華統一事業においても、若手の将軍たちをまとめ上げる重要な役割を担っていたのです。
王翦は秦の重要な武将だった
そのため、王翦は秦王政(しんおうせい)からも重用されていました。
しかし、老齢を理由に一旦引退したのは、実力至上主義者である秦王政に役立たずとして処分されることを避けるためだったのです。
その後、李信(りしん)率いる秦軍が楚軍に大敗し、勢いに乗じた楚軍が秦に侵攻を開始すると、秦王に請われて現役に復帰し、秦軍のほぼ全軍60万を指揮することになりました。
作中での王翦の立ち位置
キングダムの中で、王翦は秦の武将として登場します。
王騎(おうき)の親戚でもありますが、王翦が主家であり、王騎は分家という設定になっています。
大将軍蒙驁(もうごう)の副官であり、同じく副官の桓騎(かんき)と共に縦横無尽の活躍を見せていました。
王翦は王騎の親戚
ただし、秦六将のメンバーだった王騎に比べ、王翦の地位が低いのは、彼が危険人物だと見なされていたからだと言われています。
王翦は野心家であり、「自らが王になる」ことを目指す利己的な人物だと噂されていたのです。
そのため、元六大将軍の一人である胡傷(こしょう)に才能を認められていたにもかかわらず、先々代の昭王(しょうおう)の代から活躍しているものの信頼されず、蒙驁将軍の下で働く日々を送っていました。
王翦は危険人物として扱われていた
とはいえ、武将としての能力は紛れもなく一流でした。
トリッキーで攻撃的な戦術を得意とする桓騎とは対照的に、野戦築城や心理戦を織り交ぜた重厚な戦術を得意としていました。
その性質上、守備戦を任されることが多かったのです。
恐ろしげな形相の顔をあしらった鎧とアイマスク状の兜といったインパクトのある外見とは裏腹に、蒙驁の副将でありながら自分の身を守ることを最優先したり、味方の武将にすらゴミを見るような視線を投げかけるなど、一概には捉えきれない複雑なキャラクターでもありました。
王翦の武将としての能力は一級品
捕虜を残酷に嬲(なぶ)り殺す桓騎とは違い、投降した者や有能な敵将に対しては”自らの”配下になるよう勧誘するなど、彼独自の勢力を築くことにも余念がありませんでした。
息子の王賁(おうほん)とは滅多に話さないらしく、彼が幼少の頃に槍裁き(そうさばき)を指導したことすら珍しがられるほどでした。
このように、キングダムの中での王翦は、秦の重要な武将でありながら、危険人物として扱われ、複雑な人物像が描かれているのです。
キングダムにおける王翦の活躍と名言
・王翦と桓騎は蒙驁軍の両翼を担う
・山陽戦での王翦の戦略
・合従軍編での王翦の活躍
・鄴(ぎょう)攻略戦での王翦の策略
・肥下(ひか)の戦いでの王翦の苦戦
・王翦の名言
・まとめ:キングダムの王翦とは?
王翦と桓騎は蒙驁軍の両翼を担う
王翦は、蒙驁将軍の下で副将として活躍していました。
もう一人の副将である桓騎と共に、蒙驁軍の両翼を担っていたのです。
少なくとも信が子どもの頃には、蒙驁の名は大将軍として知られていましたが、その要因として副将の桓騎と王翦の存在があったのは確かでしょう。
ただし、山陽攻略編の時点では、他国に戦歴が広まっている武将ではありませんでした。
山陽戦での王翦の戦略
山陽戦では、王翦は姜燕(きょうえん)を何手も先を読んだ上で圧勝しました。
しかし、廉頗の登場で逆転され、築城により籠城に徹したことで間接的に勝利に貢献したのです。
廉頗はこの戦いの現況における築城に関しては自己中心的だと酷評しましたが、桓騎が白亀西(はっきせい)を討ち取り、廉頗率いる魏軍が蒙驁の本陣に向かったために、王翦軍と手負いながらも桓騎軍も含む二軍と蒙驁の本陣による挟撃のリスクを負う形となりました。
大将軍である蒙驁の生死を無視する観点では、廉頗の考え方も決して間違ってはいませんでしたが、大局的に戦略を組んでいるからこそ、王翦軍の温存が活きる結果となったのです。
合従軍編での王翦の活躍
合従軍編では、王翦は函谷関(かんこくかん)の裏手を燕軍から防衛しました。
兵力差があったものの、心理戦に持ち込んだことでオルドを出し抜き、函谷関防衛に大きく貢献したのです。
また、合従軍が函谷関から離れた同年、蒙驁の死により秦国の将軍の一人となり、魏の城を落としています。
鄴(ぎょう)攻略戦での王翦の策略
数年後、楊端和(ようたんわ)、桓騎、王翦の三軍による鄴侵攻の連合軍の総大将として、王翦は趙国第二都市の鄴攻めへと出陣しました。
途中で李牧の策を知り、昌平君(しょうへいくん)の考案した策が使えなくなったと理解すると、僅かな護衛と共に鄴へ行き、鄴を見てその場で鄴攻略の策を練り上げたのです。
昌平君が考案した策を捨てた上で、全軍で王都圏へと進軍し、兵糧攻めを決行しました。
三軍で鄴周辺の城郭を落としつつ、城の食糧難民を鄴城に集め、城の包囲を桓騎軍に任せたのです。
そして、迎撃に来た李牧軍を相手に朱海平原(しゅかいへいげん)にて頭脳戦を繰り広げながら、最終的には難民に紛れ込ませた兵による食糧庫の焼き討ちによって、食料が無くなった難民の暴動によって鄴城を陥落させました。
無くなった兵糧を秦とは逆側の斉国から買い輸送してもらうことで兵糧を確保し、見事勝利を収めたのです。
肥下(ひか)の戦いでの王翦の苦戦
鄴攻略の功績により、六大将軍が復活すると、王翦は第三将に任命されました。
しかし、肥下の戦いでは李牧の策に嵌(はま)られ、閼与城(あつよじょう)で想定以上の被害を受けたため、閼与城に留め置かれてしまったのです。
また、幾重にも張り巡らされた李牧の罠によって、桓騎軍に援軍を送ることができませんでした。
このように、王翦も苦戦を強いられる場面があったのです。
王翦の名言
山陽平定編では、敵将・姜燕に投降を勧める場面で
「私の”領内(くに)”は、うぬのような戦の強い男を必要としているのだ」と発言。
自らの勢力を拡大することに余念がない姿勢が表れています。
合従軍編では、「私は”絶対に勝つ戦”以外、興味はない」と語り、確実に勝てる戦いにのみ関心を示します。慎重かつ打算的な性格が窺えます。
鄴攻略編では趙の都・鄴を攻略すべく大軍を率いて出陣。「完璧な城だ、あの城は攻め落とせぬ」と鄴の堅牢さを認めつつも、独自の策で攻略に挑みます。
また、鄴攻略の要として部下の蒙恬や飛信隊を信任し戦わせる采配ぶりを見せます。「若いが蒙恬は、私と李牧の間に割って入る程、戦が見えておる」「行け、飛信隊。いよいよお前達の本戦だ」などの言葉からは、若い世代を見極め育てる姿勢が表れています。
趙の大将軍・李牧との知略比べでは互角の戦いを繰り広げますが、最終的に秦軍の個々の武将の力が勝敗を分けたと分析。「若き三人の駒が台頭し軍の力は失墜するどころか、結果神がかった粘りと強さを見せた」と新世代の力を評価しています。
まとめ:キングダムの王翦とは?
・王翦は戦国四大将軍の一人であり、秦の重要な将軍である
・王翦は秦王政から重用されていたが、老齢を理由に一旦引退した
・王翦は危険人物として扱われていたが、武将としての能力は一級品である
・王翦は蒙驁軍の副将として、桓騎と共に両翼を担っていた
・山陽戦では、王翦は姜燕を何手も先を読んだ上で圧勝した
・合従軍編では、王翦は函谷関の裏手を燕軍から防衛し、大きく貢献した
・鄴攻略戦では、王翦は三軍の総大将として、独自の策で鄴城を陥落させた
・肥下の戦いでは、王翦は李牧の策に嵌められ、苦戦を強いられた
・王翦は自らの勢力拡大に余念がなく、確実に勝てる戦いにのみ関心を示す
・王翦は若い世代を見極め育てる姿勢があり、新世代の力を評価している
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